新潟日報夕刊エッセイ「晴雨計」 第十四回 「ふきよせ」をたどって
「ふきよせ」をたどって
新潟日報 2012.11.2 夕刊掲載
「ふきよせ」という言葉からは、銀杏
の葉や実、楓や松葉、松ぼっくりなどが
風に吹寄せられたようなさま、または、
それらの葉や実を象ったお干菓子のとり
合わせを思い描かれるでしょうか?
ところが、新潟には「ふきよせ」と呼
び、親しまれたお菓子があるのです。
「ふきよせ」は、薄い小片にしてねか
せた餅種生地を炒って膨らませた後、蜜
につけ、砂糖をまぶした、薄オレンジ色
の俵型の菓子です。外側はサクっとして
いながら、口の中では溶けるような食感
が懐かしい方もいらっしゃるのでは?
実はこの菓子、古くは献上菓子だった
ようなのです。長岡の老舗菓子舗の大和
屋さんには、御殿様へ納めた「紅吹寄せ」
の記録があり、大変貴重です。
また、江戸時代後期に京都で書かれた
製法書「古今名物御前菓子図式」には、
同じ製法が「唐棗(からなつめ)」の名で
出ています。
さらに、同じような製法や食感を持つ
韓国宮廷菓子だった「油菓」や、台湾の
「油棗」との関連も気になります。
ある日、この献上菓子が今も古い製法
でつくられていることを知り、お話を聞
きに、弘前まで出かけて行きました。
弘前の老舗菓子舗大阪屋さんでは、近
年まで旧藩主津軽家の御留菓子だったそ
うですが、技術伝承を考慮し、店頭販売
に踏み切ったそうです。それは「ふきよ
せ」の真髄を伝える極上品でした。
その名は「冬夏(とうか)」。この菓子に
は、江戸時代初期、ご先祖が津軽藩主を
頼り、大阪から弘前へ逃れた歴史が秘め
られていました。「大阪冬の陣、夏の陣
を忘れるな」と伝えられたというご先祖
の思いが、まっ白な粉糖をまとったかの
よう。
もともと、茶の湯と菓子づくりは一体
で、武家のたしなみでもあったため、大
阪屋さんのご先祖も武士として戦い、あ
るいはまた、大阪城への献上菓子をつく
っていらしたかもしれません。
餅種生地を加熱する時、韓国や台湾で
はもっぱら「油で揚げる」のですが、日
本では「炒る」方法がとられました。
大阪屋さんは、今も手作業で炒ってい
らっしゃるそうですが、米づくりにたく
さんの農薬が使われていた時代には、餅
種生地が膨らまなくなり、一時製造を中
断せざるを得なかったそうです。そんな
ことも各地でこの種の菓子が途絶えるき
っかけとなったのかもしれません。
「いとおかし」にそれぞれの菓子のページがある。
「ふきよせ」 「冬夏」 「油菓」
また、先日まで、東京・赤坂の虎屋ギャラリーで開催されていた
「蘇る 江戸~明治の和菓子の世界」展で展示された資料に
「ふきよせ」の文字と絵の入った団扇絵があり、江戸でも
「ふきよせ」が親しまれていたことがわかる貴重な機会だった。
今回の吉田コレクションは図録がつくられ、そこにも掲載されている。
また、会津では「かるやき」の名でつくられていた。
先日長門屋さんをお訪ねして、45年ほど前までつくっていたという
その製法をお聞きし、「ふきよせ」と同じものだと確信できた。
台湾の「油棗」は、今後の課題であるが、
小麦粉でもつくられているようす。とすると、かりんとうにも
近い菓子と言え、興味深い。
第十五回のテーマは「東ベルリンでの1日」
「ふきよせ」という言葉からは、銀杏
の葉や実、楓や松葉、松ぼっくりなどが
風に吹寄せられたようなさま、または、
それらの葉や実を象ったお干菓子のとり
合わせを思い描かれるでしょうか?
ところが、新潟には「ふきよせ」と呼
び、親しまれたお菓子があるのです。
「ふきよせ」は、薄い小片にしてねか
せた餅種生地を炒って膨らませた後、蜜
につけ、砂糖をまぶした、薄オレンジ色
の俵型の菓子です。外側はサクっとして
いながら、口の中では溶けるような食感
が懐かしい方もいらっしゃるのでは?
実はこの菓子、古くは献上菓子だった
ようなのです。長岡の老舗菓子舗の大和
屋さんには、御殿様へ納めた「紅吹寄せ」
の記録があり、大変貴重です。
また、江戸時代後期に京都で書かれた
製法書「古今名物御前菓子図式」には、
同じ製法が「唐棗(からなつめ)」の名で
出ています。
さらに、同じような製法や食感を持つ
韓国宮廷菓子だった「油菓」や、台湾の
「油棗」との関連も気になります。
ある日、この献上菓子が今も古い製法
でつくられていることを知り、お話を聞
きに、弘前まで出かけて行きました。
弘前の老舗菓子舗大阪屋さんでは、近
年まで旧藩主津軽家の御留菓子だったそ
うですが、技術伝承を考慮し、店頭販売
に踏み切ったそうです。それは「ふきよ
せ」の真髄を伝える極上品でした。
その名は「冬夏(とうか)」。この菓子に
は、江戸時代初期、ご先祖が津軽藩主を
頼り、大阪から弘前へ逃れた歴史が秘め
られていました。「大阪冬の陣、夏の陣
を忘れるな」と伝えられたというご先祖
の思いが、まっ白な粉糖をまとったかの
よう。
もともと、茶の湯と菓子づくりは一体
で、武家のたしなみでもあったため、大
阪屋さんのご先祖も武士として戦い、あ
るいはまた、大阪城への献上菓子をつく
っていらしたかもしれません。
餅種生地を加熱する時、韓国や台湾で
はもっぱら「油で揚げる」のですが、日
本では「炒る」方法がとられました。
大阪屋さんは、今も手作業で炒ってい
らっしゃるそうですが、米づくりにたく
さんの農薬が使われていた時代には、餅
種生地が膨らまなくなり、一時製造を中
断せざるを得なかったそうです。そんな
ことも各地でこの種の菓子が途絶えるき
っかけとなったのかもしれません。
弘前「冬夏」 |
韓菓「油菓」 四角いものもある。 |
「ふきよせ」 「冬夏」 「油菓」
また、先日まで、東京・赤坂の虎屋ギャラリーで開催されていた
「蘇る 江戸~明治の和菓子の世界」展で展示された資料に
「ふきよせ」の文字と絵の入った団扇絵があり、江戸でも
「ふきよせ」が親しまれていたことがわかる貴重な機会だった。
今回の吉田コレクションは図録がつくられ、そこにも掲載されている。
また、会津では「かるやき」の名でつくられていた。
先日長門屋さんをお訪ねして、45年ほど前までつくっていたという
その製法をお聞きし、「ふきよせ」と同じものだと確信できた。
台湾の「油棗」は、今後の課題であるが、
小麦粉でもつくられているようす。とすると、かりんとうにも
近い菓子と言え、興味深い。
第十五回のテーマは「東ベルリンでの1日」
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