新潟日報夕刊エッセイ「晴雨計」 第十三回 菓子と和菓子

菓子と和菓子
新潟日報 2012.10.26 夕刊掲載

 いきなり質問ですが、お彼岸団子や、
十日町の「ちんころ」などは和菓子でし
ょうか? 私は行事にちなんだ菓子を追
いながら自問自答してきました。
 現在の私たちにとって、お菓子は、好
きなものを好きな時に買ったり、食べた
りできる気軽なものです。
 しかし、ひとたび自然の脅威にさらさ
れ、日常が壊れてしまうと、菓子どころ
か、食べることさえままならず、あっけ
なく飢えてしまう私たちでもあります。
 そのような自然の脅威が常に身近だっ
た時代には、菓子はさしたる理由なくつ
くるものではなく、まして買うものでも
なく、普段の個人的な楽しみのためのも
のでもありませんでした。
 「和菓子のルーツは木の実」と言われ
ます。確かに、古い茶会記などを見ると、
初期の頃は木の実や昆布、椎茸といった
ものが菓子だったようですし、菓祖神と
される田道間守は橘を手にしています。
 そこで、木に実を結ぶ「果子」という
漢字からは少し離れて、「かし」という
音について考えてみたいと思うのです。
 たとえばそれは、「米を洗う」とか
「炊く」「調理する」といった意味の日
本語「かす」「かしぐ」という音に由来
すると考えてみることは無謀でしょうか?
 というのも、古来の食文化を反映する
とされる神饌には、栗や柿などの採取さ
れた産物とともに、一年の生活暦を支配
し、手間のかかる稲作がベースにあって
こその、洗米、餅、団子、シトギ、米飴
といった供えものがあるからです。
 祈りや祀りの折につくる菓子は、日常
が稗や粟の食事であったとしても、なけ
なしの米をつかい、願いのかたちを象る
など、手をかけてつくり、供え、お下が
りを分かち合って食べるものだったと思
うのです。       
 そうした菓子には米の霊力が宿ると考
えられ、医学など発達していない時代に
(もしかしたら今でも)薬にさえなりま
した。供物のお下がりの菓子を「御護符」
と呼ぶ地方もあります。
 菓子は、命を養う食事とは違う、こう
した特別な役割を担ってきたようです。
 それはまた、食が足りた上で、個人的
な楽しみを追求し、献上や贈答といった
折に、美しさや風情、味わいを競うこと
で洗練されてきた「和菓子」とは、やは
り出発点が違う気がしています。


エッセイということで、今回も、日頃思うことを書かせていただいた。
知れば知るほど、わからないことが多く、また、おもしろい。

茶の湯とともに発展した「和菓子」は、砂糖あってこその製法といえる。
今、広く認知される現代フランス菓子も、砂糖なくしては成り立たない。
いずれも、大航海時代以降、砂糖以後の近代製法によるもの。
「和菓子」も近代以降のフランス菓子も、作り手は職人。家庭の菓子ではない。
行事にちなむ菓子を職人がつくるようになると、菓子は洗練されるが、
民俗的には退化するように思う。

十日町のちんころについては、「いとおかし*ちんころ」
お彼岸団子については、「いとおかし*長岡のお彼岸団子」へどうぞ。

兵庫県豊岡市にある、菓祖を祀る中嶋神社の祭礼を訪ねた時に思ったのは、
菓祖・田道間守(たじまもり)は、但馬守なのではないかということ。
神社のある住所は三宅。
ここを治めたと思われる三宅氏の祖先が田道間守命だとされている。
地元の神美小学校の生徒たちが歌を奉納。「たーじまもーり ♪」と歌う歌詞が親しく響く。
田道間守命は、第一に、この地の神さまである。
菓子の神様とされる田道間守命は、『日本書紀』によれば、垂仁天皇の命に
より、常世の国より非時香果(ときじくのかぐのこのみ)=橘を持ち帰ったとされる。
しかし、橘は唯一、日本原産の柑橘。学名は Citrus tachibana である。
とすれば、常世とはどこか? 田道間守命とはだれか?と気になる。
むしろ、渡来民、または大陸からの視点のほうがしっくりくる部分も。

香具山は橘山(かぐやま)でもあるようで、「かぐ」という言葉は、神さまが
いらっしゃる気配、香りにかさなる言葉のよう。
古代大和人は、橘に神性を感じていたのだろうか?

蓬莱山信仰は、もともと大陸のもの。東海に浮かぶ蓬莱山とは、日本?
その日本原産の橘を、何年もの間探し求めて、持ち帰った田道間守命を
菓子の神様として祀っている不思議。大陸の縁起を接ぎ木したような・・・。
但馬の方々も研究中のようにお聞きした。
橘については、吉武利文著『橘』が参考になった。

仙台市・青麻神社の「神饌御護符」
第十四回のテーマは「ふきよせをたどって」

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