新潟日報夕刊エッセイ「晴雨計」 第15回 東ベルリンでの1日

東ベルリンでの1日
新潟日報 2012.11.9 夕刊掲載
 
 23年前の今日、11月9日に東西を隔て
ていたベルリンの壁が崩壊しました。 
 その壁がまだあった頃、1日だけです 
が、壁の東側に入ったことがあります。
高校の頃から7~8年文通していた旧東
ドイツの友人に会うためでした。
 その友人はベルリンの南西にある都市、
ハレに住んでいました。兵役期間中は西
側諸国の人間との接触は禁じられるため、
お母さん宛てに手紙を出したこともあり
ました。彼はドレスデン大学へ進み、学
生のうちに結婚していました。
 私も働くようになり、少しお金がたま
った頃、初めての海外旅行でしたが、フ
ランスに1か月半滞在し、その間に、東
ベルリンへの旅をしました。まず西ベル
リンに行き、東ベルリン中心部のみ入国
可能な1日ビザを利用しました。
 当時は、東ドイツの一般家庭には電話
がなかったので、パリからも手紙のやり
取りをして、待ち合わせを「正午にテレ
ビ塔前」と決めてから出かけました。彼
らは国を出られないため、私がなんとし
てもたどり着かなくてはなりません。
 ただ、そこまで行くのは、本当に綱渡
りでした。最後の税関では、ニコリとも
しない兵隊さんに腕をつかまれ、連行さ
れる事態発生。同じ入国審査の列に並ぶ
人たちが不安そうに「あなたなにかした
の?」という表情で私を見ていました。
ですから、無事テレビ塔の前に立つ友人
夫妻を見つけた時は、夢のようでした。  
 その日はチグハグなことだらけ。共産
党会館みたいな建物のカフェでお茶をし
て、リクエストされたバナナを渡し、歴
史を感じる町並みを散策。床の絨毯がデ
コボコ波打つため、ころびそうになる国
立美術館には、教科書で見覚えのある名
画が並び、東のマルク硬貨は、おもちゃ
のような軽さでした。そして、夕方西ベ
ルリンへ戻ると、今度はギラギラした西
側世界に嫌悪感とめまいを感じ…。
 でも、この日があったからこそ、今も
交流が続いているように感じています。
チェルノブイリの原発事故の時は私が、
この度は、彼らが心配してくれます。
 今では、ドイツの菓子木型のことを聞
けば、本が何冊も届き、「マイセンの磁
器人形の始まりは、砂糖人形(天神講の
金花糖と同じ)だったらしいけど?」と
質問すれば、「そのようだが、調べてみ
る」などとすぐにメールがくるのです。


第2次世界大戦の結果、敗戦国ドイツの首都であったベルリンは、
米英仏ソ4カ国によって分割統治され、ソ連によって占領された
東ベルリンは、そのままドイツ民主共和国=東ドイツの首都となった。
そのため、米英仏3カ国によって占領された西ベルリンは、
東ドイツによって周囲を完全に包囲された陸の孤島で、
そこだけが、資本主義のるつぼのような、異様な状態だった。


この友人から贈られた菓子や木型のことなどについては、
マイセンの磁器人形と、そのもととなる砂糖人形については、
「マイセン磁器人形とフェーヴ・ビスキュイ」などのページを参照ください。

天神講金花糖については、「いとおかし*分水の天神講の金花糖」
「いとおかし*砂糖人形の土型」などのページをご参照ください。

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