金花糖と磁器人形 マイセンの例

サントリー美術館で始まった「マイセン陶器の300年」
を見学してきたところ、驚くような事実を知った。
マイセンの磁器人形は、砂糖人形の代替品として
始まったということだった。

1719年9月26日のアウグスト3世結婚の宴は1ヶ月も
及んだという。「惑星の祝宴」と名付けられた、
その宴の最後となった「土星の祝宴」のテーブル装飾は、
鉱山(ザクセンは銀、錫、コバルト、鉛、塩などが豊富だった)
活況を表すジオラマ的な装飾だった。
その様子が、参考展示パネルの銅版画(1729)に描かれており、
山とそこで働く人たちが配置されたテーブルアレンジが見える。
それらは、「砂糖の造作」という。
そして、この砂糖人形が18C半ば以降から磁器人形へ
替わっていったのだということであった。

磁器の開発に先行して、アラブ起源の砂糖細工の技術が
伝えられていたようだ。磁器も砂糖も大航海時代の交易品である。

目を凝らして銅版画のコピーを見ると、不鮮明ながら
その山は、砂糖細工のうちでも、金花糖の可能性が
大変強いと思われ、人物などは、ドイツの木型の本にも出ており、
何につかったのか?と思っていたが、今風にいえばシュガーペーストのような
ものであると思われる。(↓砂糖製人形と木型)
婚礼の宴の主役、アウグスト3世の父は「アウグスト強健王」。
彼は、大航海時代に運ばれた東洋の磁器に魅せられ、
錬金術師に白い磁器を研究させ、創り出させたのが、
マイセン磁器だ。その宮殿には、伊万里が千点、柿右衛門が
200点所蔵されていたという。


マイセンのビスキュイ(釉薬のかからない)人形は、
砂糖人形だった時の質感を残しているといえそうだ。
フランスのセーブルでも、同じようにビスキュイ人形がある。
いずれも、当時はたいへんな贅沢品であった、砂糖細工が先にあり、
その後に、砂糖の質感を再現してくれる磁器人形が登場したということになる。
砂糖が陶器とともに、東インド会社などによって運ばれ
宝石に近い価値を誇った時代の、途方もなく贅をこらした
砂糖彫刻、砂糖人形は王宮などでのみ、鑑賞されたのだろう。


こうした世界同時進行の砂糖細工の伝播の波が
日本で展開されたうちのひとつが、金花糖あると思われる。
「金花」という名からも、いかに贅沢な存在であるかがわかる。
食べることもできる超高級素材で、大きな「ツクリモノ」をし、
飾るということは、権力の誇示にはもってこいだ。
佐賀の寿賀台もその流れの最後の形かもしれない。


そして、砂糖人形と土人形は、同じ木型からつくることが可能
なことにも注目したい。
現在、日本の古い土人形には、「打ち込み」とコレクターが呼ぶ
中空でなく、厚みもない人形がある。菓子型を使っているといわれている。
菓子型であるかは、大いに疑問ではあるが、新潟は多いと聞く。
天神さま飾りに金花糖の天神さま飾り一式が登場することは、
たいへん興味深いことである。
庶民が金花糖の天神さまを買えるような時代になると、
王宮での砂糖細工を引き継ぐマイセンとは逆であるが、
砂糖人形に押され、土人形が衰退した?のかもしれない。
新潟は土人形が各地にあったのに、ほとんどが廃絶している
ことと、玩具研究家によって「菓子型」製とされる土人形の
存在はもう少し検討してみたい。


越後は、白砂糖が比較的豊富に流通していた様子が見受けられ、
菓子文化が、底辺においてさえも高かったかがわかる。
それでも、高価ではあるはずの白砂糖でつくるのは、
特別に大切な神様だと思っていた「天神さま」だったからともいえる。


その金花糖も、砂糖を敬遠する風潮下では、先細りとなっており、
逆に土人形の復刻(今町のベト人形)もされ始めている。
時はめぐり、砂糖と土(陶土)との入れ替わりは続く・・・。

コメント

人気の投稿