七尾と越後に伝わる猿神 その2 ながまし

七尾の「青柏祭」には、「ながまし」と呼ばれる餅菓子つくられる。
大福餅を両手でひっぱったような長細い、菱形と楕円の間のような形で、
表面の片方の端のほうを赤や青に染めた米の炒り粉をつけてある。

祭りの神饌は、柏の葉に盛られる、古式にのっとった、酒、米や餅、
などのようで、「ながまし」は町の人々が贈りあったりするものである。

ところが、この「ながまし」には、青柏祭の由来譚とからむ不思議がつきまとう。
猿神がもとめた若い娘の人身御供の替わりに供える話や、
シュケン=酒見氏がはじめて売り出したものであるなどである。

最初の不思議話は
若い娘の人身御供の代替品として、女性の性器の象ったというもの。
人身御供の替わりの神饌というのは、古代からあり、能登には
他の地域でも比較的類例が残っているので、興味深い。

もうひとつの不思議話は、
猿神を退治した「シュケン」に由来する。
猿退治の話は、いくつかバージョンがあり、その中には、
越後からきたのは、シュケンとその犬(狼)で、
猿神を闘ったのは、シュケンの連れてきた犬である、という。
シュケン=酒見氏は、その後七尾に定住し、「ながまし」の元祖!
となって、代々栄えたとう。

七尾小島にある龍門寺は、酒見氏の建立とされ、過去帳には
文明5年(1473)酒見市助右衛門の名があるようで、酒見氏の墓もある。

龍門寺は文明5年頃、七尾城山に建立されたようで、その後、
前田利家が城を移したことなどから、現在の小島の地に移転した。

文明の頃は、いかに能登が栄えていようと、神饌としてならまだしも、
「ながまし」の製菓元祖になる、というのは早すぎるのではないか?
町民文化も、菓子を買う庶民文化はまだ遠く、これからいよいよ
戦国の世をむかえ、七尾城主の畠山氏も滅亡の憂き目に会うという時代だ。

「ながまし」は酒見氏の創出だとしても、その子孫の酒見氏であり、
おそらく、小島に移ってきてからだと思われる。

小島には、山王神社の摂社、唐崎神社があることが興味深い。
近江の唐崎神社本社の神饌は、御手洗団子である。
御手洗団子といえば、人身御供と禊の意味合いがつきまとう。

青柏祭では、この唐崎神社へ山王社の御輿が迎えに行き、
二社ともそろって、町のお旅所へお出ましになる。
唐崎神社の神饌が気になるところ。
これは、あくまでも私の想像だが、「ながまし」は、唐崎神社のほうへ、
たとえば、龍門寺の酒見氏が奉納したとも考えられないだろうか?

「ながまし」にまつわる、若い女も「シュケン」も、青柏祭の由来譚に
登場するが、主役ではないところが他の猿神退治伝説と違う。
そして、何か辻褄合わせにされたような、越後での二匹の猿である。

ところが、越後には、「猿供養」や「二匹の猿」の伝説が存在する。
その3に続く。

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