七尾と越後に伝わる猿神 その3 越後の猿供養譚

七尾の青柏祭の曳山は、「でか山」と呼ばれる。
その「でか山」が練り歩く時には、いくつかの囃子唄や、
木挽音頭、数え唄などがあるが、
その中のひとつ、魚町の「曳山木遣音頭(津幡あら町)」などに
数え歌の部分、「一に、きのとの大日如来 二には、新潟の
白山様よ 三に、讃岐の金比羅様よ 四には、信濃の善光寺様よ
五つ、出雲の色神様よ 六つ、村上お天道様よ 七つ、七尾の
山王様よ 八つ、八幡の八幡様よ 九つ、高野の弘法様よ
十で、所の氏神様よ 」と続く。

一の「きのとの大日如来」というのは、越後のきのと(乙)にある
乙宝寺(おっぽうじ)のことである。
この寺はまだ行ってみたことはないが、猿供養寺、乙寺とも
呼ばれており、ここでの猿供養の話は『今昔物語』で語られている。

また、越後長岡三島にある寛益寺(かんにゃくじ)にも、

2匹の猿の供養譚が伝わっている。
この寺の鎮守は山王日吉神社であり、直江兼続が天神像を奉納してもいる。
なにより、この寺での猿が二匹であることが、驚きでもある。

そして、さらに驚くことには、七尾の大地主神社(山王さん)の
すぐ近くに、なんと猿神退治神社があることに気がついた。
地元の方に伺ったところ、正式名称ではないとのことで、
修験系の神社であるという。

シュケンが修験とされる説も、重要だと思われる。
私は初めて「シュケン」のことを知った時、弥彦の酒呑童子のことかと
思ったほどで、この「シュテン」も個人的には気になっている。

ただ、七尾で修験といえば、第一に石動山(せきどうさん)である。
中世の山岳信仰の一大拠点であったのだが、戦国時代末には
織田軍の前田利家などの兵火に係り、衰退した。
現在、石動山系の社寺が圧倒的に多く存在するところというと、
これもまた、新潟県である。七尾は越後とあらゆる糸で繋がっている。

青柏祭の曳山も石動山の祭礼の曳山の影響を受けているようだ。
石動山に残った数少ない石造物などに、光明真言板碑があり、
その写真を見て、2匹の猿の供養譚のある長岡三島の寛益寺の
須弥壇に安置されている、光明真言の刻まれた、とても大きな
木製御鏡?と通じるものを感じた。

私が勝手に木製御鏡と呼んでいるものは、中世越後の信仰の
ひとつのカタチのように思われる。私が出会った数少ない上杉家に
関係するモノの中にも、このイメージが、散見される。

長岡三島の寛益寺の槃団子については、『いとおかし』で。

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