越後長岡城下年中行事 正月十五日

一五日
上元御祝儀、朝五ッ藩、諸士一統登城、・・・
 「御鏡直し之切り餅頂戴」がある。


〇今朝小豆粥を食すれば、年中疾病をさるとて、家毎に
是を製す。此内少し計り残し置、十八日の朝食すれば、
毒虫の難を遁るといふ。
〇兒童之戯れに、杖を以て新嫁の腰をうつ事あり。
是は子を授る呪なりしとぞ。粥杖の遺風なれども、
長岡にては近年此事を聞ず。


〇夕七ッ時分、幸(さい)の神焼と云ふ事あり。
御家中並に町家にても、男子誕生始ての正月には
必ず此事あり。是を初幸の神祝へといふ。
兩三日前より扇車に色紙にて八丁紙を切下ゲて建置、
又木にて男女の人形を造り、紙着物に寶盡しの模様を
書き、挾箱の蓋に乗せ、家僕是を首にかけ、赤頭巾を
冠り、顔に彩粉を粧ひ、近親之玄関に立て、
「才の神の勧進だ。錢でも米でもおゐやァれ、
八丁紙でもおゐやァれ。來年の春は嫁でも聟でもとるやうに、
いなづの隅からわくやうに、すつくわらくわゐと、おやァれーー」
といへば、扇子、福手餅、或は手遊びもの之類をつかわす。
是を集めて、十五日には初才の神とて親戚懇意之者をまねき、
酒宴の席ニ而福引とて鬮(くじ)を以て是を分ち與ふるを興とす。
夕方才の神の堂とて、兼てまめがら・萱等を以て拵置、
此前にて酒盛致し、火を懸て、煙り上りし頃、家僕扇車を持、
堂をめぐりて
「とんどや左義長」
と云てはやす。遂に扇車も焼て仕舞。文政之頃か、或家の僕従
酩酊之上、他の家僕と途中ニて口論におよぶ。夫より親類へ
廻す事は相止しとぞ。然れども才の神の福引等は近年まで有之。
是左義長の遺風なり。
〇町家の兒童大勢集り
「才の神の勧進だ云々」いふて、家毎に錢を乞ふ。是を人費として、
金邉の郊外に出て、萱並に餝注連縄・松竹の類を取集め、
堂を造りて夕方これを焼く。
〇今明日は齊日とて、召使の奴婢隙を憩はしむ。又釜を休ませ、
鍋飯杯を食する家もあり。釜は年中遣わぬ日なし。依而正月七月
齊日に休ませると云。
反町本『懐旧歳記』より


「正月十五日夕刻、幸の神焼(男子誕生の始めの正月の儀)」の絵図あり。
八丁紙は色紙を切ったようで、今の「はっちょうがみ」とは違う。

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