新潟日報夕刊エッセイ「晴雨計」 第十回 バルセロナで和菓子づくり

バルセロナで和菓子づくり
新潟日報 2012.10.5 夕刊掲載

 菓子の道?に入るきっかけは、本業の
グラフィックデザイナーとして、菓子
やパンの会社やお店の仕をしたことか
らでした。
  デザインをするにも、まず菓子のこと
を知らなくてはなりません。職人さんと
触れあい、製造現場を見ているうち、自
分でも「和菓子」をつくってみたくなり
ました。最初は本気と受けとめていなか
った職人さんも、私が白いんげん豆でつ
くった餡を持っていくと、それなら今度
はこうしなさい、次はこう、とアドバイ
スをしてくださるようになりました。
 和菓子づくりにのめり込んだ時期と、
独立し、フリーのデザイナーとなるタイ
ミングが重なり、時間を自由に使うこと
ができたので、どんどんつくりました。
ある時「デザイナーなんだから、自分で
デザインを考えてつくりなさい」と言わ
れ、すっかりうれしくなりました。それ
からは、和菓子は私にとって、自分を表
現する立体作品ともなったのです。
 そのようにして1年ほど経つと、「和
菓子の本」の出版のお手伝いをすること
に。デザインの仕事と和菓子づくりが一
つになる幸運なお仕事でした。そして、
次に舞い込んだのは、バルセロナのレス
トランで和菓子展をしないかという提案。
ふたつ返事で引き受けました。
 バルセロナでは、レストランの仕込み
の時間に厨房へ入れてもらい、スタッフ
に混じって和菓子をつくりました。いん
げん豆は現地のものがよいものでしたが、
小豆や米の粉は日本から持っていきまし
た。問題は水でした。あまりに大量のミ
ネラルウォーターをかけ流すように使う
ので、目を丸くされました。和菓子は水
の国の菓子だったのです。
 バルセロナのあるカタルーニャ自治州
は、フランスとスペインの文化が交わる
地域で、カステラ、金平糖などの南蛮菓
子のふるさとでもありました。その後、
東京とバルセロナを往復する生活が5、
年続く間、カトリック暦にあわせ、菓
子やパンを見るようになり、行事菓子へ
の興味が強くなりました。強固なカトリ
ク圏ですから、菓子にも信仰や古い習
が込められ、原初のかたちをも残し、
その奥深さを知りました。
 「和菓子づくり」から始まり「菓子文
化」に対する興味へ。その大きな転換点
はバルセロナだったようです。

題字とエディトリアル・デザインも少しお手伝いをするうち、成り行きで、
表紙にも自分でつくった和菓子が使われることになった(私のものだけではない)
『和菓子の本』 1988年 CBSソニー出版(現・ソニー・マガジンズ)絶版
当時は、素人向けの和菓子づくりの本は珍しかった。
他に人材?がいなかったせいか、趣味で和菓子づくりをする人としても
インタビューを受け、掲載された。

バルセロナのレストランTICKTACKTOEは、 その頃とても人気のある
カタルーニャ料理のレストランだった。クリエイディブ関係の仕事の客も
多かったと聞く。入り口のバー・スペースに、和菓子をディスプレイして、
その日のアペリティフやデザートとして、試食してもらった。
初めての煉り切りに、マジパンみたい! の反応
和菓子の餡づくりが、大量の水を必要とすることは、日本人でもご存じない
のではないかと思う。それを、水道の水を沸騰させると、アク?が出るような
国でつくろうというのだから、ほんとうに大変だった。
ミネラルウォーターのボトルを、何本も空にするため、ひんしゅくもの。
肩身のせまい思いをした上、その水をたっぷり使い、手間をかけて晒した
餡の呉が、底に沈殿している鍋を、不要の水と思われ、重い鍋をひっくり返え
そうとしてくれた親切に、こちらが慌てて制したり・・・
お互い、「えーーー」な場面があった。
厨房には、南米からのスタッフも多かった。フランス語を話す料理人(コシネロ)
もいたので、片言のフランス語と、おぼえたてのスペイン語でなんとか会話。
一緒にまかないを食べたり、最後には花束を贈られ、うれしかった。
カタルーニャの行事菓子をまとめたページをアップしたことが、
HPのきっかけとなった。ページのつくりが稚拙で、10年以上前なので、
画像が粗いけれど、ご興味あるかたは、「エピファニア」
「お菓子と祝祭日」のページでご覧ください。

バルセロナのビスコチョ(かすてら)、金平糖などについては、
「いとおかし」の「海外」というページ群にあり。

第十一回のテーマは「宮沢賢治の詩を和菓子に」

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