新潟日報夕刊エッセイ「晴雨計」 第一回 長岡花火に寄せて

長岡花火に寄せて 
新潟日報 2012.8.3 夕刊掲載

 私が育った長岡の家は、花火があがる
土手まで歩いて5分ほどのところにあり
ます。昔は高い建物もなく、屋根に上が
れば花火はよく見え、あちこちの屋根か
ら歓声が聞こえてきたものです。
 土手で見ようという日には、夕方から
「場所取り」です。毎年夏休みになると
神奈川から両親とともに遊びに来ていた、
いとこの姉弟と私と弟でゴザを持って先
に行き、土手で遊んでいました。
 夏の間、子ども4人はいつも一緒で、
夜になれば、祖父母の蚊帳の中にもぐり
こみ、祖父の軍隊での話や長岡の空襲の
話などを聞きました。祖父は射撃がうま
かったとか、朝鮮語を覚えて通訳もした
などの自慢話をよくしたので、私たちは
その話をほとんど覚えてしました。
  私は、2つ年上のいとこの伸子ちゃん
 が大好きで、母がつくってくれたお揃い
 のワンピースを着てはご満悦。帽子もバ
 ックもみーんなお揃いでないと気が済ま
 なかったそうです。やれやれ。
 ですから、そんな楽しい夏休みが終わ
り、一家が帰ってしまうと、私の心には
ポッカリと穴があいてしまうのでした。
  ところがある年、私だけがそれまでの
 夏休みのように無邪気に遊べなくなりま
 した。大人になりかけだったのか、子供
 気のない私は、たいした仏頂面で、皆の
 気分をすっかり台無しにしてしまい、翌
 年から一家は来なくなってしまいました。
 花火とセットで思い出す苦い経験です。
  3、4年前、本当に久々に、長岡の父
 と、大阪生まれの主人と一緒に、河川敷
 で花火を見る機会がありました。
 戦後間もない頃は、空襲の爆撃音を思
い出す方もいらしたという花火の爆音が、
お腹にズシンと伝わってきます。そして、
信濃川の土手沿いに逃げたとか、町が焼
け野原になったという、蚊帳の中で聞い
た祖父の話が花火にだぶります。 
 積み重なった時間がひとつになり、時
を超えてこの土地で生きた人たちと一緒
にいるような感覚になり、自然と涙がに
じんできました。
 同じようなことは、行事菓子などを訪
ねた場でも感じることがあり、先人の思
いや暮らしにふれたような気持になりま
す。これから半年間、そうしたことをお
菓子な目線でつづりたいと思います


初回は、自己紹介的な内容となっている。
このエッセイでは、新潟県の方ならわかることは、
省いているので、多少説明をいれると、
花火が上がる土手とは、信濃川の土手だ。
長岡花火の中の、2004年の中越地震後に始まった
「フェニックス花火」と、NHKの2009年の大河ドラマ
「天地人」の放映前年よりはじまった「天地人花火」は、
音楽とともに打ち上げられる。
花火に音楽つけるなんて邪道、と思っていたが、
その考えは吹き飛んだ。

大林宣彦監督が長岡花火を題材にした映画
「この空の花 長岡花火物語」

2回目のテーマは「麦の正月」

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