『吉田町史』より「天神講」「団子まき」

新潟県吉田町は2006年3月20日に、合併して燕市となり、分水町とともに
その名が地理表記からは消えた。
『吉田町史資料編6(民俗)』は合併の4年前2002年に刊行されている。
p366~367に、天神講と涅槃会の団子まきが載っている。

天神講
2月25日は天神講、または天神祭りと言い、子どもがいる家では各家で天神講を行っていた。天神とは菅原道真の霊を祭った天満宮の称である。菅原道真の忌日が2月25日であることから、全国的にこの日に天神様の祭りが行われている。
天神様は習字や入試の神様であった。子どもたちは24日は学校から帰ってくると、部屋と床の間を掃除し、さらに床の間に天神様の掛け軸や天神様の人形を飾り、松・竹・梅の木と天神菓子を供えてお参りをした。竹は大神竹という特別な笹竹であった。天神講が近づくと、今も天神様や犬の形をした天神菓子が菓子屋やスーパーなどで売り出される。昔は粉菓子で、今は氷砂糖のお菓子である。以前は時期になると、菓子屋が注文をとりに来たという。天神菓子の他には水ようかん、みかんなどを供えた。24~25の晩は、天神様の前で勉強すると字が上手くなる、頭がよくなるといわれていた。子どもたちは学問がよくできるように、字が上手になるようにと祈った。粟生津では天神様の前で勉強する子どもたちに大人が「天神様からよく習え」と言った。天満宮にお参りに行く人もいた。粟生津では天神様は小豆が好きだといい、この日は寿司や小豆ごはんを食べた。小豆飯は普通のごはんに塩ゆでした小豆を入れたものであった。この日の夕食にはのり巻き、稲荷寿司、お饅頭をふかして食べた。粟生津では天神様の前でお経を読んだことが『えちごののうかから明治が語る』[伊藤甲子1996]に次のように書かれている。
「南無天満大自在天神経
 妙是我聞一時仏在 須菩提王八萬四千 寶蔵金剛般若波羅 密多第一梵天第二 帝釈第三■羅王  釋迦牟尼仏道三千 大千世界廣大福寿 経一切諸仏奉行禮 拝供■命須菩提王 一切明神第三千大 千世界供養諸説奉行 南無天満自在天神経」
下中野では青年会が宿をして、男だけ集まって天神講をした。出しあいをしてお酒を飲んだり、歌を歌ったりしていた。しょっぱいマンマや寿司を作って食べたが、今はこの行事もなくなった。

男だけ、または大人だけの天神講も、新潟県内あちこちで聞かれた行事だった。家庭行事では家長が司祭である場合が多い。
受験の神様などというのは、昭和に入ってからのことと思われるが、今はこればかりを言うようになってしまった。県内を見ても、江戸時代からの天神像を所有するお宅も少なくなく、もともとは受験などは無関係の行事であったはずだが、『吉田町史』は2,002年という刊行年から見て、現状に近い習俗がメインになっているようだ。
続いて、「彼岸団子」、そして「団子まき」でこのページは終わるのだが、筆者の言葉で共感する記述があったので、書き写す。
「団子まきや彼岸の行事は、寺院で行われるために仏教的な色彩が濃いが、その宗教的な行事のかげに、地域の人の思想が反映されていることがある」
団子撒きは、「撒くことにも意味がある」と教えてくださったご住職もいらした。
北陸一円には、涅槃会(2月15日)にはお寺で遊び、団子を拾って帰る行事がいまだ残っている。

吉田町の「団子まき」は3月。月遅れで行われる。天神講もそのようだが、現在では旧暦、新暦についてお尋ねしても、高齢の方でも判然としないことも多くなってしまった。

団子まき
3月16日頃に行われる、釈迦の涅槃の日の法要である。禅宗・真言宗のお寺では団子まきをした。団子はイスス(石臼)で米をひいた粉からつくったもので、白や食紅を混ぜた赤いものがあった。子の団子を食べるとまめで丈夫になれるという。また、団子を食べたり持っていたりすると蛇除けになるというので、袋に入れ、遠足のときなどに腰に下げて行った。粟生津の安楽寺では涅槃の掛け軸が下がり、説教のあとに団子をまいた。粟生津では団子は釈迦涅槃団子といい、この行事がちょうど味噌を煮る頃の行事なので、味噌の中へ入れると味噌が腐らないといわれる。今は袋に入れて渡してくれる。粟生津でも団子を味噌桶に入れると味噌作りを失敗しないという。

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