鯨羹
長岡の菓子店「紅屋重正」の菓子製法の口伝を書きとめた資料
(年代は江戸後期より。詳細は不明。長岡私立図書館蔵)に、
絵図あり。黒羊羹と白紙餅。
いわゆる「鯨餅」であると思われる。
金沢では、夏の菓子だという。
そして、黒い部分には、昆布を焼いたものを使うとのこと。
鯨餅は、江戸期には、おそらく各地でつくられたと考えられる。
今もまだあちらこちらで、神饌を含め、残っているからだ。
現在、東北地方には、独特の「くじら餅」が見られる。
主に、日本海の海運と関係あると思われる土地に残ることを
考えると、海運がメインの時代に伝わったことは間違いない。
ただ、東北へ伝わると、柚餅子、椿餅、切山椒、などの菓子と、
区別があいまいになり、呼び名と菓子の組み合わせが
その土地で違ってきて、非常におもしろい残り方をしている。
東北の菓子を考える時には、名前や由来をそのまま受けとったり、
他の地方の常識を当てはめることは、間違いのもとになりそう。
東北と呼んで、ひとくくりにするのもやめなくては、とも思う。
越後から見た時、まずは庄内、置賜、会津それから南秋田へと
少しづつ広げていきたい。
日本海側の海運、船運によってつながる土地に、
共通の菓子文化が残っているように思っている。
越後は、日本一の人口と米の生産力と砂糖の流通の豊富さで
その菓子文化は、非常に古く、庶民層にまで浸透し、豊かだと気がつく。
金沢の鯨餅に昆布が使われていることは、大変興味深い。
昆布が南へ運ばれ、砂糖が北へ運ばれた。
初期には、どちらも薬としての価値のあるものだ。
昆布のルートは砂糖のルートでもある。
(年代は江戸後期より。詳細は不明。長岡私立図書館蔵)に、
絵図あり。黒羊羹と白紙餅。
いわゆる「鯨餅」であると思われる。
金沢では、夏の菓子だという。
そして、黒い部分には、昆布を焼いたものを使うとのこと。
鯨餅は、江戸期には、おそらく各地でつくられたと考えられる。
今もまだあちらこちらで、神饌を含め、残っているからだ。
現在、東北地方には、独特の「くじら餅」が見られる。
主に、日本海の海運と関係あると思われる土地に残ることを
考えると、海運がメインの時代に伝わったことは間違いない。
ただ、東北へ伝わると、柚餅子、椿餅、切山椒、などの菓子と、
区別があいまいになり、呼び名と菓子の組み合わせが
その土地で違ってきて、非常におもしろい残り方をしている。
東北の菓子を考える時には、名前や由来をそのまま受けとったり、
他の地方の常識を当てはめることは、間違いのもとになりそう。
東北と呼んで、ひとくくりにするのもやめなくては、とも思う。
越後から見た時、まずは庄内、置賜、会津それから南秋田へと
少しづつ広げていきたい。
日本海側の海運、船運によってつながる土地に、
共通の菓子文化が残っているように思っている。
越後は、日本一の人口と米の生産力と砂糖の流通の豊富さで
その菓子文化は、非常に古く、庶民層にまで浸透し、豊かだと気がつく。
金沢の鯨餅に昆布が使われていることは、大変興味深い。
昆布が南へ運ばれ、砂糖が北へ運ばれた。
初期には、どちらも薬としての価値のあるものだ。
昆布のルートは砂糖のルートでもある。
尾道の「鯨餅」
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